日本百名城: 七尾城

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七尾城七尾城
【七尾城】−七尾城(石川県七尾市:標高約300m、石動山系城山)は観音寺城(滋賀県近江八幡市:標高432.9m、繖山)、小谷城(滋賀県長浜市:標高約495m、小谷山伊部山)、春日山城(新潟県上越市:標高182m、蜂ヶ峰)、月山富田城(島根県安来市:標高197m、月山)と共に日本五大山城の一つに数えられている名城で能登半島の中心的な城として何度も攻防戦が繰り広げられました。七尾城もその都度強化され中世の北陸地方の山城では珍しい大規模な石垣が築かれ、戦国時代には能登国の守護所も七尾城に移され、山麓に設けられた城下町は幾重にも重なりあい活況を呈していたそうです。天正5年(1577)、春日山城の城主上杉謙信の侵攻により七尾城は2万の兵に包囲されましたが、能登守護職畠山家は2千の兵で籠城戦を展開、謙信は各支城を各個撃破し七尾城の孤立化に成功したものの、余りの堅城だった為、1年経っても落城に至らず春日山城に帰城しました。すぐさま、畠山家は再び能登国を掌握したものの、謙信は兵力を整え再び能登に侵攻、畠山家は占拠した支城を放棄して七尾城に籠りました。しかし、今回の籠城戦は領民なども加わり1万5千人が立て籠もった為、城内が極端に不衛生となり疫病が蔓延、当主である畠山春王丸も病に倒れ、支柱を失った畠山家臣は上杉派と、織田派に別れ分裂状態となります。上杉派だった遊佐続光が城内を掌握すると謙信に対し開城、天正5年(1577)、能登半島の畠山家支配が終焉しました。しかし、翌年である天正6年(1578)に謙信死去、これにより、上杉家の次期当主の座を巡り家中を2分する争いが発生し、この隙の乗じて織田軍が能登、越中に侵攻し瞬く間に織田領となっています。天正9年(1581)、七尾城には北陸侵攻で功があった前田利家が配されますが、堅城だったものの、これからの世情を考え、七尾港に近い平地に小丸山城を築城し七尾城は廃城としています。
七尾城七尾城
【七尾城の戦い】−戦国時代に入ると能登守護職を担った畠山家が凋落が顕著になり、永禄9年(1566)9代畠山義綱が重臣である長続連、遊佐続光、八代俊盛などの反乱により能登から追放され、嫡男の畠山義慶が10代当主として擁立されました。しかし、その義慶も天正2年(1574)に死去、さらに跡を継いだ畠山義隆(義慶の弟)も天正4年(1576)に死去、結果的には義隆の嫡男である春王丸が幼少ながら当主に就任しました。こうなると、畠山家には国内を押える力はなく、家臣達だけで領内運営が行われるようになり、それを危惧した春王丸の後見だった長綱連は上杉謙信に近づきますが、事実上、無条件降伏が勧告され、上杉家との対立が決定的となりました。上杉謙信は居城である春日山城から出陣し、能登に侵攻、それに伴い畠山勢も七尾城に集結し籠城戦の準備を始めました。畠山勢は上杉勢を背後から撹乱させる為に大規模な一揆を発生させようとしましたが、難なく鎮圧され、間も無く大軍を持って七尾城に取り囲みました。しかし、七尾城は堅城として知られ、犠牲の割には一向に落ちる気配がありませんでした。そこで、七尾城の周辺にある支城を次々に撃破し、孤立化図りましたが、なお堅守して落城には至りませんでした。天正5年(1577)3月、北条氏政が北関東出兵した事に伴い、謙信が一時春日山城に引き上げると、畠山勢は攻勢に転じて、各支城を取り返し一定の成果を上げました。しかし、7月に入ると、北条家の侵攻も止んだ為、再び謙信は七尾城に侵攻、畠山勢は再び籠城戦に備える一方で長続連は織田信長に対して援軍を要請し了承されています。今回の戦いでは七尾城には領民合わせて1万5千人が立て籠もり、夏場の季節だった事から、城内は極端に不衛生となり、疫病が蔓延し形式上とはいえ旗頭である春王丸も病によって倒れた事で家臣内でも動揺の局地となります。そのような中、元々上杉派だった遊佐続光、温井景隆、三宅長盛兄弟などが上杉家に内応し、9月15日、密かに城門を掌握して上杉勢を城内に導き入れ堅城を誇った七尾城も遂に落城しました。
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