日本百名城: 小諸城

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小諸城:大手門小諸城:三之門
【小諸城】小諸城(長野県小諸市)の築城年は不詳ですが平安時代後期に木曽義仲の家臣と思われる小室氏の居館として設けられたのが始まりとされます。長享元年(1487)大井光忠により本格的な城郭として拡張され、戦国時代に小諸が武田領になると武田家の軍師である山本勘助の縄張りより大改修されました。天正10年(1582)に武田家が滅び、織田信長が本能寺の変で倒れると、小諸領は空白区となり、小田原北条氏と徳川家康が帰属を巡り激しい戦いが繰り広げられました。この戦いにより小諸領は徳川家の支配下に入り、国人領主で徳川家に従った依田信蕃が小諸城代となり、その子供である依田康国(「康」の字は徳川家康から一字与えられた)も徳川家に従った為、改めて小諸城の城主に抜擢されています。天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い、小諸城には豊臣秀吉の家臣仙石秀久が入封し、近代的な城郭として改修、拡張されました。江戸時代に入ると関ヶ原の戦いで東軍に与して本領を安堵された秀久が小諸藩を立藩、小諸城は藩の主要施設となっています。明治維新後に廃城になると多くの建物が破却され荒廃が進みましたが、明治13年(1880)に旧小諸藩の藩士達が敷地を買い取り「懐古園」として整備保存され、大手門(国指定重要文化財)、三の門(国指定重要文化財)、足柄門(光岳寺:山門)、黒門(正眼院:山門)などの遺構が残されています。武家屋敷の遺構は少ないものの、城下町は北国街道の宿場町でもあった事から街道沿いには小諸宿本陣や脇本陣、多くの町屋建築が点在して往時の雰囲気が残されています。
小諸城小諸城
【依田信蕃】−依田信蕃は織田信長の信濃、甲斐侵攻で数多くの武田家家臣が織田家に転じる中、最後まで頑強に抵抗した数少ない武将の1人です。天正10年(1582)の時点では田中城(静岡県藤枝市田中)の城将として布陣し、籠城戦に備えました。当地に進軍してきた徳川方の大軍が田中城を取り囲みましたが、一向に動じる気配が無く、手を焼いた徳川軍の開城勧告を発しましたがこれも跳ね除けました。そうこうしている内に主家である武田勝頼が自刃し武田家が滅亡しても状況は変わりませんでした。そこで、武田家の家臣で御一門衆ながら逸早く織田、徳川家に転じた穴山梅雪(信君)が事の詳細を書簡に認め、説得しようやく田中城を開城し、その条件として全兵士の命と城の受け取りを大久保忠世に指定しました。徳川家康は依田信蕃の気概と忠誠心、武将としての能力を高く評価し(依田信蕃は二俣城(静岡県浜松市天竜区)の攻防戦でも半年に渡り籠城し、結果的に徳川軍は力攻めでは落とす事が出来なかった。)家臣として迎えようとしましたが、信蕃は主(武田勝頼)の安否が判るまでは私は武田家の家臣である、と宣言し堂々と居城である春日城(長野県佐久市春日)に引き上げました。その後の経緯は不詳ですが、ある時期から徳川家に転じ、織田信長が死去した事で信濃、甲斐が空白区となり、徳川家の南信濃侵攻に尽力し小諸城の城代に抜擢され、信蕃が討死後は、嫡男依田康国に小諸城と「松平」の姓、家康の「康」の字が与えられています。
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