日本百名城: 上田城

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上田城上田城
【上田城】上田城は天正11年(1583)に真田昌幸によって築かれました。昌幸は武田勝頼の重臣でしたが、天正10年(1582)に織田家の信濃、甲斐侵攻により滅亡に追い込まれ、その後は織田四天王の一人で関東方面を任された滝川一益に従います。しかし、同年、本能寺の変で明智光秀により信長が討たれると一益は関東から撤退した為、昌幸は小田原北条家に従う事となり、それに伴い上田地方に進出し上田城築城に至りました。その後は、徳川家に従うも、徳川と北条家が和睦した事を受け沼田地方が北条家に割譲される事が決定すると、徳川家を離反、第一次上田合戦が行われます。この間、上杉景勝に従い、勝利後は豊臣家に従います。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは昌幸と2男幸村が西軍(豊臣方)、長男信之が東軍(徳川方)に別れ戦い、上田城では第二次上田合戦が行われ、この戦いでも見事勝利します(これにより徳川秀忠率いる徳川本隊3万を1週間程足止めし、関ヶ原に遅参させた)。しかし、本戦である関ヶ原では西軍が敗北し、昌幸、幸村は九度山(和歌山県九度山町)に流され、上田領は信之が引き継ぎます。しかし、徳川家への遠慮から上田城は徹底的に破却され、信之も三ノ丸に居館を設けるに留めています。寛永3年(1626)に仙石忠政が上田に入封し上田藩が立藩、上田城は藩の主要施設として再整備され現在近い形となり多くの建物が建てられました。しかし、完成には至らず、仙石氏が移封になると、その後の藩主は三ノ丸で政務を行い結局完成しませんでした。上田は城下町であると共に北国街道の宿場町で、上田市内の柳町や隣接する海野宿は当時の町並みを良く残しています。上田の地は奈良時代は信濃国の中心で、信濃国分寺や国分尼寺などが点在し、鎌倉時代には塩田北条氏が領した塩田平では数多くの寺社仏閣が建てられた信州の鎌倉の異名があります。
上田城上田城
【第一次上田合戦】−天正10年(1582)、本能寺の変により織田信長が死去した事を受け、織田軍の関東方面を任されていた滝川一益が関東からの撤退を決意し兵を引き上げました。真田昌幸は主家である武田家の滅亡した事で、一益に従っていましたが、これにより小田原北条氏に従うようになっています。昌幸はその後、徳川家に転じた事で沼田領(群馬県沼田市)を巡り小田原北条氏と対立していましたが、天正13年(1585)、徳川家と北条家の和睦が成立し、その条件の一つとして沼田領が北条家に割譲される事が真田家に相談も無しに決定しました。昌幸から見ると真田家領(沼田領)を勝手に差し出す道理が無く、結局それを拒否し徳川家から離反して上杉家に転じ対立を深め、同年に徳川家の真田討伐が決定しました。徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉など7845人の軍勢が昌幸が守る上田城に受けて派兵し、対する真田方は約2千の兵が上田城を中心に布陣しました。昌幸は城外でワザと敗れて上田城に敗走し、それを追ってきた徳川軍を上田城の2ノ丸まで引き込んだ末に一斉攻撃を仕掛け、混乱する徳川軍は敗走、その横から真田信之(真幸)、さらに背後から矢沢頼康が追撃しました。この戦いにより真田方の大勝利となり、徳川方は1千3百人の戦死者を出したのに対して、真田方は20〜40人程度だったとされます。
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