日本百名城: 新発田城

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新発田城:二ノ丸隅櫓新発田城:大手門
【新発田城】新発田城は、新発田氏の居城として築かれた平城で、城と城下町の周囲を菖蒲が良く育つ湿地帯だった事から「菖蒲城」との異名があります。その為、平城でありながら、守り易く、攻めるには硬く、「新発田重家の乱」では何度も上杉軍を苦しめています。新発田城が落城し、乱が集結したのは天正15年(1587)で実に7年にもわたり反乱が続いていた事となります。上杉家の支配下での詳細は不詳ですが、廃城か、又はそれに近い状況だったと思われ大きな役割を果たす事は無かったと思われます。文禄4年(1595)、上杉景勝は五大老に就任、慶長2年(1597)には加増を受け120万石の大大名として居城を春日山城(新潟県上越市)から会津黒川城(福島県会津若松市)に移し、新発田城には溝口秀勝が6万石で入封します。秀勝は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、徳川方(東軍)に与し、豊臣方(西軍)に与した上杉家が画策した上杉遺民一揆(上杉棄民一揆)の鎮圧に尽力し本領を安堵され新発田藩を立藩します。新発田藩は代々溝口家の当主が歴任し明治維新を迎えています。新発田城下は戊辰戦争などの戦災は受けなかったものの、地方の中心都市として近代化政策を採った為、比較的に伝統的な町屋建築が軒を連ねる古い町並みは余り見られませんが、武家屋敷の遺構である足軽長屋や旧石黒家住宅などが残され、旧藩主下屋敷の清水園、郊外には五十公野御茶屋などの史跡が点在しています。又、新発田城下と会津城下(福島県会津若松市)を結ぶ越後街道沿いには藩主溝口家の菩提寺宝光寺託明寺、新発田氏の菩提寺である福勝寺が境内を構え寺町を形成し落ち着いた町並みが見られます。
新発田城:2重隅櫓新発田城:3重櫓
【新発田重家の乱】−新発田重家は当初は新発田家から離れ五十公野家の養子として五十公野治長を名乗っていました。上杉謙信に従い、関東進出など主要な合戦に従軍し、天正6年(1578)に謙信の死後に行われた後継者争いである「御舘の乱」では上杉景勝方として大きな功績を挙げました(特に武田勝頼との和平交渉を成功させた事は景勝勝利を決定付ける最大の要素とされます)。そのような中、同じく影勝方として活躍した兄である新発田長敦(七手組大将の一人)が死去し、治長が新発田家を継ぎ重勝と名前を改め、新発田家と五十公野家の遺領を引き継ぐ立場となりました。御舘の乱が終結し景勝が勝利すると、当然それなりの恩賞が与えられるはずでしたが、内乱により上杉家自体が弱体化し、謙信の時代に築き上げた盤図が大きく縮小、さらには、子飼いだった上田出身の家臣を重用し恩賞を与えた事で重家には全く恩賞が与えられないという考えられない事態となりました。これにより、重家は上杉家に対して反乱を画策し、周辺を領していた芦名盛隆や伊達輝宗、織田信長などの協力を得て、新潟周辺まで進出し大きく盤図を広げました。天正10年(1582)に上杉家の同盟者である武田家が織田家の侵攻により滅亡すると、織田軍は越後への侵攻を開始し景勝も窮地に立たされましたが、同年に本能寺の変で信長が倒れると当面の危機は脱しました。その後、景勝は豊臣秀吉に従う事で後方の憂いを無くし、積極的に重家を打とうと兵を送りますが悉く敗退し新発田方有利に推移いました。しかし、天正12年(1584)に芦名盛隆、天正13年(1585)に伊達輝宗が死去した事で同盟関係が崩れ、次第に追い込まれる事態に陥りました。天正15年(1587)、重家は最後まで籠城し抵抗しましたが、弟が守る五十公野城が落城すると新発田城は孤立無援となり、最後は敵陣に突っ込み自刃して果てたと伝えられています。
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