日本百名城: 甲府城

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甲府城
【甲府城】−甲府城の築城年は不詳ですが平安時代後期に甲斐源氏の一族である一条氏の居館として設けられたのが始まりとされます。その後、一条氏の菩提寺である菩提寺が創建され、鎌倉時代にはその後継である一蓮寺の境内として利用されています。戦国時代に入ると武田家が本拠を甲府に移し躑躅ヶ崎城(武田氏館)を居城にした為、地形的に城下町の防衛上は重要視されたと思われますが積極的な利用は行われなかったようです。天正10年(1582)に武田家が滅亡し、本能寺の変で織田信長が倒れると、甲府領は徳川家康が席巻し、天正18年(1590)に豊臣秀吉が北条氏を倒し天下を統一すると豊臣領なり羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)が配されます。豊臣時代に甲府城は本格的な城郭へと変貌を遂げ浅野長政・幸長父子によって完成しました。江戸時代に入ると再び徳川領となり、甲府の地が江戸城へと続く重要な土地柄だった為(中山道の下諏訪宿から江戸日本橋を繋ぐ甲州街道が城下を通過していました)、徳川家一族(徳川義直・徳川忠長・徳川綱重・徳川綱豊)や重臣(平岩親吉・柳沢吉保・柳沢吉里)が城主を勤める大城郭へと改修、拡張が行われます。江戸時代中期までは甲府藩が立藩し、藩庁や藩主居館が設けられていましたが享保9年(1724)に柳沢吉里が大和郡山藩(奈良県大和郡山市)に移封になると甲府藩は廃藩となり、甲斐国は天領、甲府城には甲府勤番の設置され幕府直轄の城となりました。幕末には勤番制を廃止して城代を配するなどさらに重要視されましたが慶応3年(1867)に大政奉還が行われ形式上江戸幕府が終焉すると甲府城からは撤退し、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には新政府軍の板垣退助が無血入城しています。明治時代に入ると甲府城は廃城となり、明治10年頃までに概ね主要な施設が取り壊され、勧業試験場や葡萄酒醸造所、中央線甲府停車場、山梨県立甲府中学校などに利用されました。その後の開発や戦災などにより城下には目立った武家屋敷町屋建築、ましてや茅葺の建物などの遺構は見られませんが、周囲には武田家縁の神社や寺院が数多く存在しています。
甲府城甲府城
【甲州勝沼の戦い】−慶応4年(1868)1月、幕府官僚の勝海舟は新選組局長の近藤勇に甲府城を押えるように命じて出陣を準備を開始、近藤勇は新撰組を中心とした「甲陽鎮撫隊」を結成、3月に入り江戸を出立しました。その頃、甲府城には板垣退助や伊地知正治など次々と新政府軍が集結し、城内に立て籠もっていた勤番士も戦意が低く事実上無血開城し、新政府軍が甲府城を掌握しました。近藤勇は江戸から甲府まで雪中行軍の中、大砲2門を擁していた事もあり、必要以上の進軍効率が上がらず、到着時には既に甲府城は新政府軍により占拠されていました。甲陽鎮撫隊は新撰組以外は混成部隊で士気も低かった事から、この事実を前に逃亡する者も多く、とても戦える状況ではありませんでしたが、3月6日に現在の山梨市一町田中から歌田にかけて戦端が開かれました。当然、圧倒的な差を付けられ敗北し、勝沼の柏尾坂へ後退し1度陣形を立て直すも、まもなく瓦解し八王子退却、甲陽鎮撫隊は解散し江戸に戻っています。これににより新政府軍は甲州街道筋を確保し江戸進軍が容易になっています。本来、江戸城を守る支城であるはずの甲府城はあっけなく新政府軍に奪われ、その後、取り返す姿勢も殆ど見せておらず、勝海舟は早くから江戸無血開城を模索していたのかも知れません。
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